礼拝
森 崇
常盤台バプテスト教会 2024.2.4 主日礼拝 なんのために生きるのか④「今、永遠のいのちに生きる」森 崇牧師【ヨハネの手紙 一 1章1-4節、2章7節】(新共同訳 旧約P.441~442)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 ヨハネによる福音書 3章16節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生10番「主のみ名により」1.2節
献金感謝
主の晩餐式 新生414番「マラナタ」
聖書 ヨハネの手紙 一 1章1-4節、2章7節
宣教 なんのために生きるのか④「今、永遠のいのちに生きる」 森 崇牧師
祈祷
賛美 讃美歌21「球根の中には」1.3節
頌栄 新生667番「聖なるかな 聖なるかな」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- わたしたちは今、永遠のいのちを持って生きています。通常、人生には誕生と死があり、この間にいのちがあって、生きているという認識があるのですが、聖書が私たちに伝える善き知らせは、わたしたちのこの体の内に、心の内に、永遠のいのちが備えられています。
内側にいのちを秘めているものは他にどのようなものがあるでしょうか。「球根の中に花が秘められている」「ドングリの種の中に、大きな木となる可能性が秘められている」「さなぎのなかにちょうが秘められている」「たまごのなかにひよこの姿が秘められている」それは、今は顕されていないが、確かにそうなるであろうという可能性と希望を秘めています。そうです。永遠のいのちは今私たちの内側に確かにあるのです。
ヨハネ福音書では「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)と告げられます。御子イエス・キリストが私たちに与えられており、それは一人として滅びるいのちがないように、永遠のいのちを得るためであると告げられています。この驚くべき言葉のキーワードは「御子を信じるものが」です。わたしたちのうちに与えられている永遠のいのちの希望は、御子イエス・キリストを信じた時、受け入れた時、永遠のいのちはすでにあるのです。永遠のいのちに関して以下のことをぜひ知っていてください。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(17:3)
私たちが生涯を終えるとき、どこに行くのだろうという問いに向き合うことになります。聖書では天国や地獄といった概念がありますが、御子イエスを通して臨むべきところは「父の家」(14:2)です。そこには私たちの思いをはるかに超えて住むところがたくさんあります。死後の世界の後に備えられる永遠のいのちがありますが、むしろそれよりもはるかに勝る喜びの福音として私たちが聖書を通して知らされることは、今、わたしたちは永遠のいのちを持っている、今、わたしたちは永遠のいのちに生きている、ということです。
ヨハネによる福音書とも深い関わりのあるヨハネの手紙ではこのヨハネ福音書に現された永遠のいのちは、目に見えないもの、手で触れることのできないもの、手渡すことが出来ないものではなくて、すでにあるもの、今おきているもの、目で見ることが出来、手で触れることが出来るものとしています。この著者はこの手紙の結びにも、「神の子の名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っている」(5:13口語訳、新共同訳「得ている」)とします。すなわち御子イエス・キリストによって顕されたいのちの言葉は、ヨハネの手紙の著者を通して、今確かに存在しているもの、かたちがあるもの、伝えることが出来るもの、残すことができるもの、差し上げ、贈ることができるものとしています。それはすなわち、永遠のいのちは今生きることが出来るものとしてあるということです。そして、イエスさまのことば(いのち、あい)は現実に、手紙という形をとって生きたということです。本日はめぐみ幼稚園に仕えられ、今は天の父なる家に住む教諭の生き方を通して、永遠のいのちへの希望を深めてまいりましょう。
(※新共同訳では永遠の命、口語訳では永遠のいのちと表記されています。)